例えば、とある著名な作家の描いた猫にとって『それ』は甕に入った水であった。
また別のとある著名な作家の描いた絵師の娘にとって『それ』は父であり炎であった。
そしてボクにとって『それ』とは隣に突っ立っている、ただそれだけの事象に過ぎなかった。
何故なら『それ』はあまりにも身近なものであったからだ。ボクは呼吸をするたび『それ』を知り、歩くたびに『それ』と出会い、時には『それ』に助けられ、生きるために『それ』を蹂躙した。
『それ』の姿は白であり、黒であるように見えた。
光に晒された白が、ぽっかりと開いた黒に成り代わる。そんな姿であるようにボクには見えた。前述した者達の『それ』はまた違った姿をしていたのだろう。

ざくり、と湿った土を掘る音がする。
「あついねー」
じっとしているだけでも汗ばんでいく肌を不快に思いながら、それでもその場を動こうとしない。
「おーい聞こえてますかー?」
「聞こえている」
即座に返ってきた返事に満足しながらも「こんな炎天下でロクに水分もとらずに働きづくめだなんて、馬鹿にも程があるよねえ」しっかり毒づくことは忘れない。
「そう思うのなら手伝え、アルル」
「嫌。何が悲しくて墓荒らしなんて」
はぁあ、大仰に溜息をついて未だ地の底でせっせと土を掘っている相手を見やった。
「シェゾ、そろそろ諦めない?」
数度目の言葉を投げかけるが、返ってくるのは沈黙ばかり。勝手に帰ってしまおうかと何度思ったか知れないが、その度にもう少しもう少しと自分に言い訳をして留まっている。結局は一人で帰る気などないのだ。
古い墓には稀に見ることだが、生前その人が使用していたものを墓に一緒に入れてあることがある。
それは装飾品だったり、日用品だったり、儀式的なものだったり。
様式は様々であるがどれにも一様に言えるのが貴重品だったり贅沢品だったりするということだ。
死後の生活に困らないように、という昔あった土着の風習ではあるのだが
今にまで残っているような墓を作れるのは当時の金持ち連中であり、そういう人間というものは死後までも自分の評価を気にするらしい。
黄金で出来た日用品なんて、どうやって使うんだか。
この場所もそういった墓の一つで、シェゾ曰く「資金源」だとか。
荒んでぼろぼろに崩れかかった墓石は長く風雨に晒されてくすんだ色を呈している。「ばち当たりめ」ともう何度目になるか判らない罵り言葉を悪びれもせず言ってのけ、墓の主に同意を求めてみた。当然のように墓石は沈黙するばかりでつまらない。
「あついなー」
もたれかかった墓石は熱を帯びているし、ぎらぎら照る太陽を遮ってくれるような木陰はとっくにない。
瑞々しい木の葉も逞しい幹も、周囲で燻っている炭の塊に変わってしまった。時折思い出したように爆ぜるそれは少しばかり前まではあおあおとしたうつくしい緑を両手いっぱいに広げていた筈だったのだが、それも今や見る影もない。
まだ熱を持つそれらは少女の体感温度に多少なりとも影響を与えているだろう。
にも拘らず少女はただ「あつい」と不平不満を漏らすことしかしなかった。
太陽は眼下の様子など素知らぬ顔で輝き続ける。
真っ青な色が延々広がる空には雲などひとつとして浮かんでいない。
土の下にいる男にその熱が伝わっているかは知れないが、多少の差はあれど熱いことに変わりはないだろう。
さっさと諦めればいいのに、嘯いて穴を覗きこんだ。
「何かあった?」
頭一つ分、地面に沈みこんだ男を見やって少女は訊く。
「木棺らしきものがある。とっくに腐って崩れているがな」
意外にも答えは返ってきた。
「中身はありそう?」
気をよくして再び訊くと、
「杯があった。銀製だ」
泥まみれの杯を掲げて見せる。それをひょいと取り上げて「綺麗じゃない」目を眇めた。
「持っておけよ」
だけ男は言って再び盗掘作業に意識を向けた。
少女は曖昧に返事をして空を眺めることにする。頂点まで上り詰めた太陽は曇る気配も見せなかった。
ざくり、ざくり。音がする。湿った土を掘り返す音。
目を閉じれば音はより鮮明に聞こえてくる。
ざく、ざく。
ざく、ざく。
こそり、と繁みから音がしたような気がして少女はゆるゆる目蓋を持ち上げた。
前方の繁みが動いている。
敵かと溜息をつき、ああやっぱり早く帰っておけばよかったと自分の判断を後悔した。
かさかさこそこそ音は震える。
ひた、と訪れた不気味な沈黙の数瞬後に、『それら』は一斉にやってきた。
なんだ獣か、の声は唸り声によって掻き消された。


地上の様子がおかしいことに気付いた男は、出てきた銀食器の数々を袋に放り込み、穴から体を出した。
地上に顔を出した途端、むっとした熱気が男を襲う。一面火の海と化したこの場所を何事かと見渡せば、先程と同じく墓石に寄りかかって座る少女が目についた。
「アルル」
轟々燃え盛る炎にあって一人涼しげな少女を男は呼びとめた。
少女の周囲では黒々とした影が踊るように手足をばたばたさせている。いくつもいくつもあったそれは一つ、二つと順々に倒れていき端から端からぼろぼろと崩れていく。
少女はそれを和やかな笑みを浮かべて見ている。
理由なく生物を殺害するような趣味を彼女は持っていない。襲ってきたのは奴らが先だろう、が。
「いくらなんでもやりすぎだろう」
「とーくつしてる人に言われたくない台詞だね」
ぶすぶすと焦げた肉と毛が嫌な匂いを辺りに振りまいて炭化した肉からは骨片がところどころ覗いている。
そんな肉塊がいくつもいくつもごろごろ転がっているのだ。
彼とて似たような状況を作ったことは何度だってあるが、それを成したのが目の前の少女であるというのはひどくそぐわない気がしてならない。
「あのな、アルル」
子供をあやすような、愚図る子を宥めるような口調で男は言う。それを言うことが出来る程には男は生を重ねてきたし、同じくらい死も重ねてきたのだ。
「死んでいい命なんて、ないんだ」
「知ってるよ。死ななくていい命もないこともね」
何故追い払うだけで留めなかったのか、と自分を棚に上げて咎める真意を見透かされたような気がして男は溜息をひとつ吐く。己とて例外ではないと理解しているのだと暗に仄めかすような発言だった。
煤のついてしまった青いスカートをはたきながら少女は立ち上がり、その飴色の目を男に向けた。
キミもそうだよ、と言われたような気がして男は目を閉じた。

ボクから見た『それ』はボクにとてもとても近しくて、ひょんなことで頭をもたげるような身近な存在だった。
『それ』を見る度ボクは安心するし『それ』があることでボクは生きていられた。今のように。
この眼に映る『それ』は薄茶けた白と光を閉ざす黒で出来ていた。
ボクは呼吸をするたび『それ』を知り、歩くたびに『それ』と出会い、時には『それ』に助けられ、生きるために『それ』を蹂躙した。
けれど彼が傍にあるようになってから、ボクは呼吸をするたびに彼と共にあることを知り、歩くたびに彼の軌跡と出会い、時には彼という存在に助けられ、生きるために彼の願いを蹂躙した。
ボクにとっての『それ』は最早白と黒で構成されることはなくなり、彼という形をもってここに鎮座することになった。
来る別れに際しては、『それ』が未だ彼の形をしていることを願うばかりである。






バッドエンドはやってこない
別れの時が来たならば、ボクの命はキミにあげよう