がたん、道の傍にある一軒家から何かが落ちるような音がした。
き、きぃ、ゆらゆら揺れる扉は開いたままで、今しがた誰かが開け放して出て行ってしまったかのようだ。
これは一体何事か、誰であっても思い浮かべるであろう疑問をシェゾは家を探索することで解決しようと試みた。
見ず知らずの人間の家であるなら、誰かが夜逃げでもしたのではないかと思ったろう。
しかしここは記憶が正しければ自分が今躍起になって追っている獲物の住み家ではなかったか。
家には灯りが灯っておらず、今しがた火の使われた気配もない。
生活感のあるそれらからは人が住んでいることは窺われるのだが、それにしても何故扉を開け放したままで。
ぎぃい、板の張られた床は歩くごとに軋む。
そう広くない部屋には、おかしなものは何も残されてはいない。
と、奥から何かが落ちるような音が聞こえた。
誰かがいるのは間違いなさそうだ、とシェゾはそちらへ向かう。
たどり着いた扉に手をかけた瞬間、
「来るな・・・っ!」
くぐもった叫び声が悲痛に響いて、何事かといぶかしむ。来るなと言われても聞き入れる義理はないと、その扉を開け放った。
小さな部屋、設えられた寝台、その上の人物。ごろりと転がる置物は先程の音の原因だろう。
赤く火照った頬、幾筋も流れた涙、しかしそれらを一蹴するかのような鋭い眼光。
目の前のアルルからは手負いの獣のようにぴいんと張った警戒心が透けて見えて、思わず言葉を失った。
「一杯盛られた、嘲笑うなら今のうちだよ」
自嘲気味に言う。
「誰に。」
「ウィッチ。新薬の効果でも試したかったんじゃない?おかげでこの有様だ」
「毒か?」
「それならとっくに解毒してるさ、媚薬だよ。まったくあいつは性質が悪い」
衣服が擦れるのも辛いのか、いつもの服ではなくゆたりとしたシャツを羽織っているのみ.。
すらりと伸びた手足がネコ科の猛獣のようなしなやかさをもって光に照らされ、うっすら浮いた汗と苦悶の表情がなんとも言えない艶めかしさを醸し出している。
凹凸は少ないが滑らかな曲線に心奪われて思わず手を伸ばす、のを彼女は射殺しそうな視線で止めた。
「それ以上触るな」
白くなるほどきつくシーツを握りしめた腕の下から覗くぎりりと吊り上がった目が本気だと訴える。
「さもなくば食い千切ってやる」
剥き出しにされた敵意と殺意がぞわり、と背筋を泡立たせた。
ああ、こいつは確かにオレの獲物で敵で、殺し殺される仲だった。
けれど彼女は敵である前に少女だったということを、今更のようにシェゾは思い知らされた。
「食い千切ってみればいい、出来はしないくせに」
軽口を叩いて汗ばんだ肌に触れようとした瞬間、腕の皮膚に杭を打つかのように噛みつかれた。
ぶち、皮膚に沈む歯がごりりと骨を探すように食いこんでいく。
それに顔を顰めて、けれど手は止めない。
堅甲骨から腰へ。なだらかな背骨を沿うように撫でれば、それだけで過剰ともいえる反応が返ってくる。
喉の奥で悲鳴を噛み殺したのだろう、ぎちぎち噛み締められた奥歯が皮膚を押し潰して犬歯が肉を引き裂こうと沈んでいく。
ごつり、芯に歯を当てた硬質な感覚がした瞬間に容赦なく鳩尾に拳を入れる。
かは、息を吐くようにしてその歯が腕から離れた。
よくもまあ肉が見えるまで食いつかれたものだ、頑なすぎる彼女を不憫に思った。
ぱたぱた垂れる血が彼女の口元を、頬を、髪を汚していく。
「触るな、と言った」
体を折り咳き込みそれでも肉食獣のような目をしたまま、口元を血で汚したアルルは言う。
「お前はボクの敵だ」
血濡れの顔を拭うこともせず、ぼんやりと浮かぶ月光の中で一人ぎらぎらと目だけが輝いている。
「聞こえないな」
ぎい、と寝台が軋むように体重をかける。す、と身を引いた彼女を捕らえようと乗り出して、
ばちん、と音がして突如現れた抜き身の刃物を彼女は突き出した。
ひやり、と首筋に冷気の塊が当てられる。
「お前の慰み者にされるなんて、死んでもごめんだ。首を刎ねられたくなかったら、出て行って」
ばねじかけの隠しナイフの柄を握り、硬質な声で宣言するのを否定する。
「断る。貴様に意趣返し出来る機会を、このオレが見逃すとでも?」
ぎり、色が変わるほど握りしめられた小さな手がしなった腕に繋がってぶうんと振りかぶられる。
首に向けられたナイフを、その腕をとって止める。触れた腕がふるりと震えた。
「この程度の抵抗じゃ、意味ないな」
その言葉にち、と舌打ちしたアルルは前触れも牽制もなくさきほどシェゾがしたようにその鳩尾に蹴りを入れ、
うろたえたシェゾを薙ぐように蹴り落とし、掴まれた腕はそのままに全体重をかけて喉を潰した。
はっ、はっ、と荒い息はまだ続いているが明らかな敵の出現にそれは全て排除すべしとの興奮にすり替わっているらしい。
敵意ばかりがちらつく瞳が熱い視線を向けてくる。
「出ていけ」
「この部屋から、この家から。今すぐに」
色のない視界の中で唯一真っ赤に燃える眼が許さない、と言う。
お前がここにいることは許さない。
その敵意が心地よい。殺意の籠る目が綺麗だと思う。
どうせ殺されるならこいつと殺しあって殺しあって最高に美しい彼女を見てみたい、とも。
だから男はにい、と嗤った。
彼女の眉間に寄った皺がさらに増えるのを満足気に眺めて、ナイフを持った手を離してやれば警戒心も露わに離れる少女。
辛いだろうに、苦しいだろうに、塵ほどもその様子を見せまいと。
「もう一度言おう。キミはボクの敵で、ボクはキミを倒す。何度向かってきても倒し続ける。だから、殺されたくなければこんな真似は二度とするな」
次触れれば息の根を止めてやる、言外の言葉は重みをもって宵闇に鎮座した。
「狩人は獲物を可愛がることも許されぬと?」
くつくつ笑ってやれば今度こそ怒気も露わに「出ていけ、変態!」と怒号が飛んだ。
怒号と同時にナイフまで飛んできたものだから、シェゾは降参の印を掲げて大人しく退散することにした。