第二夜


こんな夢を見た。
魔王の室を退がって、廊下伝いに割り当てられた部屋へ帰るとランプがぼんやり点っている。机の上にある硝子ランプ、そのコックを捻ったとき、炎の揺らぐような音がした。同時に部屋がぱっと明るくなった。
窓の細工は誰のものであったろうか、黒々とした酸化鉄を曲げて伸ばして作ったような樹木が、硝子の向を覆っている。硝子も赤に青に鮮やかな色硝子で幾千年も昔であろう襤褸の聖者を描いている。沈香のあさい香りが机を撫でるように漂っている。広い場所だから閑散として、人気がない。黒い天井に差す硝子ランプの丸い影が、仰向く途端に生きている様に見えた。
音を立てて椅子に腰かける。右の手で背を探ると慣れた感触が思った通りにそこにあった。あれば安心だから、手を引っ込めてきちんと膝の上で組んだ。
お前は勇者である。勇者なら悟れぬ筈はなかろうと魔王は言った。そう何日までも悟れぬのを見ると、お前は勇者ではあるまいと言った。只人であろうと言った。さては怒ったなと言って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来るがいいと言ってぷいと向をむいた。腹の立つ。
隣の広間の壁に据えてある古時計が次の鐘を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜又入室する。そうして魔王の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、魔王の命が取れない。どうしても悟らなければならない。俺は勇者なのだ。
もし悟れなければ自害する。こうも辱められて、生きている訳には行かない。綺麗に死んでしまう。
こう考えた時、俺の手は又思わず椅子の背に回った。そうして暗い色をした鞘のつるぎを引き摺り出した。ぐっと柄を握って、暗い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。凄いものが手元から、すうすうと逃げて行く様に思われる。そうして、悉く切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。俺はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来て已むを得ず尖っているのを見て、忽ちぐさりと遣りたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている柄がにちゃにちゃする。唇が震えた。
つるぎを鞘へ収めて右脇へ立てかけて置いて、それから椅子に深く腰掛けた。――真理を悟るには無と。無とは何だ。底意地の悪い男だと歯噛をした。
奥歯を強く噛み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
色硝子が見える。ランプが見える。石組の壁が見える。魔王の山羊角がありありと見える。呵々大笑と嘲笑った声まで聞こえる。腹の立つ男だ。どうしてもあの山羊頭を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと言うのにやっぱり沈香の香がした。何だ香の癖に。
俺はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと言う程殴った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両脇から汗が出る。背中が棒の様になった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無は中々出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。一と思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
それでも我慢してじっと座っていた。堪えがたい程切ないものを胸に盛れて忍んでいた。その切ないものが体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、何処も一面に塞がって、まるで出口がない様な残刻極まる状態であった。
その内に頭が変になった。ランプも色硝子も、机も、格子飾りも有って無い様な、無くって有る様に見えた。と言っても無はちっとも現前しない。ただ好加減に座っていた様である。ところへ忽然隣室の時計がボーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐにつるぎに掛けた。時計が二つ目をボーンと打った。
魔王の嘲笑う声が聞こえた。









夏目漱石著「夢十夜」ヨリ