かろり、かろり。
風を受けて風車が笑いだした。
から、からからからから・・・
娘はその二本の足でしかと地面を握っておる。
枯れ果てた井戸の周りには花と見紛うばかりに色とりどりの風車が立てられて、娘はその中心の枯れ井戸に腰掛けて手すさびに風車を回した。



惑ってはならぬよ、ないてはならぬよ、追いつかれるその前にお逃げ、お逃げ。
焔が頬を撫でても素知らぬ振りで
風が肌をさしても目を瞑ったままで
お逃げ、お逃げ。遠くまで。



一里ほど駆けた頃であろうか、高かった陽はとうに山向こうに沈みゆこうとしている。
母の声がこだまする、お逃げ。もっともっと遠くへ。
それでも娘の足は疲れ果てて動かない。
近くに厩でもないものか、あれば藁に潜ってでも暖をとったものを。
しきりに辺りを見回すが人っ子一人いない野っ原には人家もなければ当然厩もない。
仕方ない、火を熾すかと枯れた枝葉を拾い集めた。
ひゅう、冷たい風が肌をさす。
早いとこ火を熾さねば寒さに負けて死んでしまう、娘は懐の火種を枝に移した。
たちまち焔は火の粉をあげて燃えだした。ちりちり焔が頬を撫でるので娘はようやく人心地つくことができた。
それから半刻も過ぎたであろうか、とうに陽は落ち辺りは宵闇に沈んでいる。
唯一娘の周りばかりが絶やされることのない薪のおかげで煌々と焔をあげていた。
娘は遠くの山向こうを見上げた。自分の辿った道を。自分のもと来た場所を。
月のない暗い晩であった。
疲れ果てた娘は暖かさにつられてとろとろまどろみ始める。眠ってはならぬ、ならぬと言い聞かせるも目蓋が下がっていく。
やがて意識が闇に落ちかけた途端、
どおおんと山向こうで大きな音がして娘は目を覚ました。
消えかけていた火に薪をくべて火種を絶やさぬようにしてから改めて音のする方へ目を向ける。
どおん、どおおん。それは確かに大筒の鳴り響く音であった。
ごおうと鬨の声が上がり、山向こうの空が焼けるまでさほど時間はかからなかった。
頭上には暗い空が広がっておる。
その一部が焼けたように赤く染まるのをただ見ていることしかできなかった。
あああれは戦であろうか、聞こえるはずのない合戦の喧騒が耳に届いた気がして娘は目を細めた。
どこもかしこも戦ばかりだ。
がらあん、くぐもった鈴の音が空に響く。
墨を流した雲海が鈴の音と共に山向こうへ飛んでいった。
がらあん、がらあん。御通りなるぞ、御通りなるぞ。
山向こうの焼けた空の下に何があるのか娘は薄々感づいておった。けれど今一度走るのは娘にとって耐え難い苦行であったし、母の言いつけを破るのも本意ではなかった。
「そこの。」
不意に尊大な声が降ってきて、娘は山向こうから目を逸らした。
「なにか。」
「そこのお前、ここで何をしておる。」
はて目の前にあるのは鬼であろうかと娘は思った。
夜闇に首だけがぷうかと浮いておる。やけに青白い肌はなるほど血が通っていないように見えた。
「山を見ております。」
ふん、と鬼は不満そうに鼻を鳴らした、「あちらに何があるというか。」
「我の郷がございます。」
「燃えておるが、よいのか?」
「よいのです。」
よいのです、娘は今一度繰り返す。
擦り切れた小袖の上からぶるりと震えた自分の体を擦って暖をとろうと再び焔に薪を放り入れた。
先程より大きくなった焔で照らしてみれば、浮いた顔にはちゃあんと体があった。
黒い甲冑が闇に溶けこんでいただけであったのだ。
なんだ、つまらぬと目を逸らし ぱちん、弾けた火の粉を娘はぼうっと眺めた。
「お前、変わった娘だな。」
「然様で御座いますか。」
愛想も何もあったものじゃない返事を返す。
ぐるぐる雷が唸って、再び大きく鈴が鳴った。
がらあん、がらああん。
「よいのか?」
「何がです。」
「あれは喰うぞ。お前の郷を喰ってしまう。」
「・・・よいのです。」
百鬼夜行が雲になって遠くへ遠くへ流れていくのを娘は見ていた。
どうせ滅びてしまったのですもの。
「火の手が上がって何刻過ぎた?」
「つい今しがた。」
「何故滅びてしまったと言う?まだ人は生きている。まだ村は生きている。」
「みなみな死んでいまいました。」
落ち窪んだ黒目がちの眼にはちらちら焔が踊る。
朱ばかりが目につくまなこの中に密かに刃が潜んでいた。
「お前、既に死んでおろう?」
ふと、鬼が言った。何故かようなことを、そう言いかけたがはてそれは真かもしれぬと娘はよくよく思い返してみた。
娘の住む村が野盗に襲われたのは覚えておる。山向こうではまたごうごう鬨の声があがった。
性質の悪い落ち武者くずれの野盗どもで、下卑た笑い声がやけに耳についたのだった。
「お逃げ」
母が言う。
「お逃げ」
血に塗れた声で言う。
逃げなければ、思ったが体が動かない。俄かに眠気がさしてきて、そのまま目蓋が落ちた。
ああそうだ。体は井戸に捨てられた。他の女の遺骸と共に、邪魔だと井戸に捨てられた。
斬られた傷口に蛆が沸いてこそばゆい。ぶくぶく水に膨らんだ肌はじきに溶けて崩れて見る影もない。おちやないの婆が髪を持っていくのを誰も気に留めなかった。
きっと血と肉の腐臭のするあの冷たい井戸水の底で今も腐ったままであろう。
「怨念ばかりが集ってしまったのだな。」
哀れなことよとちいとも不憫に思っていない表情で鬼が言う。
「復讐すれば、よいのでしょうか。」
消え入るほどの声で娘は言う。
「すればよい。」
鬼は嗤う。
「それとも怖気づいたか。」
せせらわらうのにも娘は何も言わぬ。
それに焦れたのか鬼は何かを思いついたように
「その怨念、俺に預ける気にはならぬか。」
くつりと娘が笑って、それきり。
ごおおう、いっそう大きい勝鬨があがって戦の終わりを告げる。
戦の痕跡はじきに屍肉に群がる烏や野犬や餓鬼どもがぺろりと喰らってしまうだろう。
「その代わりにお前を殺した野盗ども、皆殺してやろう。なかなか良い案ではないか。」
そうだそうだと手を打って喜ぶ鬼に
「憎しみに狂った骨に、何をおっしゃるか。」
娘は落ち窪んだ眼窩を覗かせてやはり嗤った。



からからからから、風車が風に遊ぶ。
娘は少しばかり考えてから風車を井戸に放って、そしてふらりと何処へ行くでもなく消えてしまった。
遠くでそれを見ていた鬼は
ただ虚ろな目で跡形もない村であったものの残骸を見つめた。