「サタン様」
柔和な笑顔のままで女性は一礼した。
「・・・今日も雨ですね」
硝子の向こうで赤い水が大地を叩いている。ある者は不安気に空を見上げ、ある者は憂鬱そうに溜息をつく。
女は前者だった。彼女は時折窓を大開にしたまま空を見上げては泣きだしそうな目をする。
女が考えていることが容易に想像できて、魔王は廊下でそれを見かける度に気付かれぬようその場を去るのだった。
「じき、慣れる」
お前も、民も。環境適応の上手い種族であるからな、と安心させるように言えば
そうですわね、と女は相好を崩した。
「さもなければ私が雨を止めるか。創造主を倒せずともそのくらいは出来よう」
そうですわね、と女は二度笑った。
人間はじきに雨の降らない日を知らなくなるだろう。じきに世界に起きたことを忘れてしまうだろう。
雨の音が鳴り止まない。あらゆる建造物は雨の色に染まってしまい、荘厳な神殿でさえも昔のような美しさを保ってはいなかった。
ふと女が窓の外に目をやった。人家の屋根を見下ろす程の視界から見えたのは、傘を差す男一人だけだった。
男は何をしているようにも見えなかった。ただ雨の中で立ちすくんでいるだけのように見える。
彼女は声をかけようともせず、ただじいっと男を眺め、瞬きをひとつ落としてからこちらに向きなおった。
「アルルは戻ってくるのでしょうか」
それは問いかけというより確認に近い響きを持っていた。さながら囚人を詰問するかの如き響きに、魔王は苦笑を禁じ得ない。
「創造主が死んだとしても、アルルは戻って来ないだろう」
「そう、ですか」
「世界に均衡をもたらすのは創造主だ。アルルはきっと次の創造主になることを選ぶだろう」
一拍置いて、そうしなければ世界は破滅してしまうのだから、と。
「私たちはもう、アルルに会えないのですね」
「恐らくは」
女は窓の方向に首を傾けて、小さく何がしかの言葉を呟いた。
雨は降り続く。



その部屋は白かった。
他と隔絶された空間。清潔な牢にいるのは少女と、かつて少女だったもの。
「やあ、久し振りだねサタン」
魔王の姿を見止めるなり飴色の目玉をひらめかせた少女は少々やつれているようだった。
傍らには青い服と茶色の髪をした、人間だったものの残骸が散らばっている。
魔王はそれらを一瞥して、「痩せたな」と素知らぬ振りで少女を気遣った。
白い部屋は変わらず染み一つない美しさを保っている。
魔王の気遣いに笑顔を作った少女は、無造作に「そっちはどう?世界は滅びた?」切り出した。
「いいや、世界は滅びていない。お前が創造主となってくれたお陰で」
ふうん、と少女は生返事で返した。
「ボク、創造主なんだ」
「ああ、お陰で皆助かった」
「ボク、ただの人間を殺しただけだよ?」
「それが創造主だったのだ」
「彼女が死んだからボクが創造主になったの?」
「まさしく」
「彼女はいつから創造主だったの?」
「さて、私には判るまいよ」
「ボクの次の創造主は誰になるか知ってる?」
「さて、それも判るまいよ」
「キミは道化だね」
「まさしく」
「ボクらも道化だったんだね」
「まさしく」
ひとしきり喋り終えた少女は何事か考え込むような素振りを見せて、魔王の顔をじっと見つめた。
「じゃあ創造主たるボクから一言」
一呼吸して、心底嬉しそうに少女は言った。
「世界に、わざわいあれ」
滅びてしまえ、嘘だらけの世界。
魔王は穏やかに笑い、少女もまた喉を鳴らして嗤った。
「やれやれ、仕方のない子だ」
「それはお互い様」
場に似合わぬ和やかな声が日常を錯覚させた。
まるで今までと変わらないような。
「私の后にならぬか」
日常の延長線のような言葉と共に骨ばった手が伸ばされて、少女は魔王の顔と手とを交互に眺めた。そうして顔を俯けてからしばらく、ぱっと破顔すると同時に顔を上げた。幼く快活な笑み。
「残念。ボク、嘘吐きは嫌いなんだ」
子供のような単純な答え。魔王は毛ほども残念がった様子を見せず、差しだした手を下ろして言った。
「それは残念だ」
世界一の嘘吐きさんに、さよならを言おう。
少女は笑顔で手を振って、魔王は白い部屋を閉じた。

ぱたん。



絶望の音がする。
やがて少女は白い部屋で死んだ。








終末、、道化師が出揃う時
(カーテンコールは鳴り止んだ)