こちらの世界に来てからは心休まる時がない、とアルルは思った。
飛ばされてすぐは新たな場所への不安が心を占め、しばしの時間を置いてこちらに慣れた頃でも向こうでは皆どうしているのかと心を砕き、プリンプの大会で再会を喜んだのもつかの間。
あっという間にこちらに馴染んだ面々と毎日のように騒がしく過ごす。
騒動の内容は推して知るべし。
稀にならばまだ楽しむ余裕もあるというものだが、それが毎日となるといい加減辟易せざるを得ない。
早々に彼らから逃げ出すことを決意して数日。
森の中ならば見つからないだろうと逃げ込んだ先に大きな屋敷を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
「今日も匿ってもらえると嬉しいんだけど。」
数度目となる訪問に、重苦しい音を立てて門扉が開く。
赤いマントを羽織った人影に向けて笑っいかけるのも何度目だったか知れない。
森の奥にひっそりと存在する館。
彼らから逃れるにはもってこいなこの場所には、ひとりのまものが住んでいた。






誰かが何処かで瞼を閉じた






老朽化した床はぎいぎい音をたてるものの、頑強に作ってあるようで抜ける様子はない。
赤いまものはこちらの様子など知ったことではないとそっぽを向いて何やら書に目を通している。
「前にも言ったろう、我の研究の邪魔をせぬというならば構わないと。」
「家主に一言もなしで上がりこむほどボクは非常識じゃないもので。」
館の一角に作られたこの部屋は静かで落ち着く。
喧騒の元になるような人物はここにはいないし、ここを知りもしないだろう。
館の窓からは多少豊かすぎる気のしなくもない森林が見える。
むしろ樹海と言ってもいいくらいの密度と広さ。
何年も放ったらかしにされていた屋敷であるから周囲に樹木が乱立している状況はおかしくもなんともないのだが
「限度ってものがあるよねえ。」
陽光すら遮るほど密集した木の枝に重々しい溜息を吐いた。
「なんだ気に食わんのか。」
「館を圧迫するような勢いの樹木を愛せるっていうんならボクはキミを尊敬するよ。」
ボクには無理だ、と首を振る。
こんな、自身を侵蝕するようなものは愛せない。
「気にしたことがなかったものでな。仕方あるまい、ずっと手つかずだったのだ。」
「そりゃ仕方ないね。むしろよく残っていたものだ。」
ひょいと背後を振り向けばまものは先程の書を置き、床に何やら図形とも文字ともつかないものを描いている。
研究の一環だろうかと少女は考えて、どうせならそのご大層な研究とやらを知りたいという好奇心が疼くのにまかせてまものの手元を覗きこんだ。
みみずがのたくったような字。一音で単語を形成する、古い言葉だ。
ただ黙々と文字を描くのにつられて自然とアルルも口を閉ざした。
白い石灰が床に刻みつけられる音だけが響く。
円を描き、周に沿って一言一言をしかと描きつけていく沈黙の作業の最中に思いついたような調子でまものが口を開いた。
「貴様は、この少年を救おうとはしないのだな。」
じいとまものの手元を見つめていた目を上げてその顔を見れば、心底不思議そうな顔をした少年と目が合った。
この少年、と言うからには今まものが乗っ取っている体の本来の持ち主を指しているのだろうか。
「ボクはそっちの事情、あんまり知らないし。」
本の栞にされている紫色した魂は明らかに萎れているけれどまものが何かした、という訳ではなく気落ちしているだけだろう。
「放っておいても害はなさそうだしいっかーって。」
事実彼が外に出ていて害になったところを見たことがない。一名を除いては。
言わずもがな除外された一名は目の前で萎れている魂だが、同情する気は起きない。自業自得の言葉だけ贈っておこう。
「おかしな娘だ。」
暗に歯牙にかけることもないと貶したことに気づいたのかいないのか鼻を鳴らして眉間に皺を寄せた。
「まものは退治されて然るべき、神は讃えられるべき、なんて二元的な思考してないからね。」
「では貴様は何を敵とする。」
再びがつがつ不機嫌な音をたてて刻みつけられる石灰のリズムを心地よく感じながら少女は応えた。
「ボクを妨げるものを。」
それに興味を見せるそぶりもなくまものは淡々とした言葉を吐く。
「非常に合理的で非人間的な回答だ。」
素敵な褒め言葉ですこと、少女はくつくつ笑って床に延々刻まれる文様に意識を遣った。
ぐるりと円周の外側に並べられた文字が整列するさまは美しい。機能美というやつだろうか、無駄な装飾を省いた姿がすっきりとして優しい印象を与えた。
「おい」
「何?」
声を掛けられてくるりと横を向く。
「邪魔だ、退け」
「ああ、はいはい。」
次の行程に進むのだろう、今しがた手に持っていた石灰はどこかにやってしまっていた。
手をはたく動作に、自然目が行く。
「袖、白いのがついてるよ。」
ここ、と指し示した箇所をまものが目で追う仕草が、なんだか年相応に見えた。
あ、かわいい。
ちょっと長い睫毛がふるふる震えてるのとか、それを自覚してなさげな表情とか、年上ぶってるくせに体が幼いせいでちぐはぐに見える態度とか。
素直に「かわいいな」って。
「誰がかわいいだと!貴様我を愚弄するか!」
うっかり口から滑り落ちた言葉を律儀にも拾って反応する姿に思わず笑みが浮かんできた。
「やっぱり、かわいい。」
ふふ、笑う。
相手はといえば憮然とした表情のまま。
「子供扱いするでない。」
噛みつかんばかりの敵意を押し込めたような低い声色。しかし先程の激昂を恥じているのかその勢いはない。
「なんだよ、ボク明らかにお姉さんだよ?」
「何処がそう見える。我はもう何百年も生きて居るのだぞ」
「んー、主に背丈とか?」
「それは宿主のせいであって我のせいでは・・・」
「はいはい、わかったわかった」
まだ何か言いたげなのを無理矢理押しとどめて抱きよせた。
「少しこうされてなよ」
ぎゅうっと抱き締めた体はやっぱり小さな少年のもので、老獪な物言いとの差が愛しい。
しばし不満気に体を離そうと四苦八苦していたのもつかの間、諦めた様子で溜息を吐き「好きにしろ」とだけ言い放った。
「うん、そうする。」
まずは証として彼の頬にキスをひとつ、落とした。








頬の上なら
満足のキス