「本日は誠にご愁傷様でした」
シャムのそれのような細い手足をした猫が地面に手をついて言う。
前足はべたりと地面について、後ろ足は猫ではありえない角度に折りたたまれて地面の上にあった。
地面というのも不可思議なものだ、四方は黒で塗り潰されており天地の上下も判別出来ない。
しかし猫はそこに地面があるのだと言わんばかりの確かさを持っている。
そうしてまるで正座のまま礼をしたような格好の猫が両手を地面にやって青い青い瞳をきょろりと上にやってこちらをしかと見つめるとにんまり笑ってから
「本日は、本日は誠にご愁傷様でした」
道化のような妙に甲高い声で言った。






暗い場所から引き上げられるような感覚に目を覚ました。
何かと思えばさんさんと輝く太陽が目蓋の上に光を落としている。無理矢理意識が戻ったのはこのせいか、と今朝に限って隙間のあるカーテンを恨みがましく見つめた。
目が覚めてしまったものは仕方がない。硬いベッドから無理矢理に体を引き剥がして爽やかな陽気に顔を顰めた。
日常的に朝は来る。不変的に日は昇り、常識的にそれを知っている。
手を抜いた朝食。牛乳、卵、ライ麦のパン、少しの燻製肉。
常備してあるそれらで適当に栄養を摂取する。味気ないとは思わない。
晴れやかな空気が嫌いなので、外出するのを嫌がった。今日は籠りきりで本でも読もうとずらり並んだ蔵書の一角に手を伸ばした。
ざらざらした装丁は微かに擦れるような音をたてて本棚から引き抜かれる。
エメラルドのタブレットに記されたと言われる神から賜りし魔術の写本は煌びやかな金糸で題を縫いつけてある。見栄っ張りの金持ちが金に飽かせて作らせたというのは想像に難くない。
しかしそのような装丁にシェゾは何の価値も見出しておらず、度々粗雑に扱われることや陽の光によってその背は焼けて解れてしまっていた。
重量のあるそれを膝の上で広げ読む。
窓から差す長い日が短くなって行くにつれ、だんだんと腹が減ってきた。
卵もパンも朝のもので終わりだ。
仕方なく燻製肉を齧って飢えを紛らわすもそれ以上何かを口にしようという意思はない。
食料を調達しに家から出るのが面倒になったとも言う。
一食程度食べなかったところで死にはしない、今はいいかとひとりごちて飢餓を訴える体を無視した。
ぺらぺらと向こうが透けて見えるような薄い紙を捲る。一度目を通した本であるので進みは早く、すぐに次へと手が伸びる。
肌寒い外気は壁に遮られ入ってこない。穏やかな陽の光だけが窓を通過し、ぼんやりとした暖かさを広げていった。
梢はそよ風に揺れて、小鳥の遊ぶ声が聞こえる。
世界は穏やかで、暖かくて、綺麗だ。
今この場で男が何をしていようと何を考えていようと世界は変わらず美しい。
人間一人の意思が介入する場などそこには存在しない。
薄暗い部屋が、せいぜいの範囲でしかなかった。


東から西へと陽は流れていく。
夕陽が落ち、辺りが薄暗くなってようやくシェゾは本から顔を上げた。
木々の向こうに落ちて行く西日が橙色を辺りに振りまいて、次第次第に藍色に染められていくのをぼんやり見つめる。
そういえば今日は静かだな、とただただ穏やかな一日に気がついた。
今日は何かにつけて馬鹿騒ぎをしたがる魔王も、敵同士の筈なのに馴れ馴れしく笑う少女も、暴力的なまでに騒がしい女も。まるで誰もいないかのように一日が過ぎて行った。
昨日はいったいどうやって過ごしたのだったか、思い出そうとするも靄がかかったように記憶が曖昧で、まるで記号をなぞっているかのよう。
昨日は確か、そうだ大勢から「おめでとう」を言われて訳もわからぬままに大量の贈り物を受け取ったのだったか。魔王が盛大な宴を開いて、皆が笑っていることが無性に嬉しくてついつい笑顔が零れたのだった。
ふわりと凪いだ風が通って、黄金色が脳裏で揺れた。
「誕生日なんて祝って何になる、とか言わないでよ?ボクはこれでも感謝してるんだ。」
太陽のような香りと少女特有の柔らかい声が耳の奥でリフレインする。
「うまれてきてくれてありがとう」
橙色を匂わせながら声が通り抜けて行く。
幸せな思いに思わず口角が緩み、けれど気が付いてしまった。それはありえないことだ、と。
昨日は今日ではありえない。
気付いてしまえば簡単に認められた。ああそうか、あれは全て夢だったのだ。
よほど幸せな夢だったらしい、なにせオレが今日という日に笑っているのだ。
本当の昨日は今日と変わらない一日だった筈だ。起きて、食物を摂取して、知識を蓄える。繰り返し繰り返し、しかし今日という日を忘れない。
ことん、と音がしたので背後を振り向いた。
目尻の吊りあがった青い目、それに銀褐色の毛並みをした猫の置物がゆるゆると手をつく。
猫の口端がにやりと三日月のように笑って、「本日は誠にご愁傷様でした」と言った。
ああまったくもってご愁傷様だろうよ、なにせオレが生まれた日なのだから。




本日は」