「さよなら」を告げてみたいと思う。
そうすれば纏わりつくあの不快な馴れ合いも全て終わってしまうのだと、そうシェゾは考えた。
そしてそれは同時に魅力的な獲物を失うことにも繋がるのだ。


誰が殺した?クック・ロビン
それは私と紅雀
私のこの弓と矢で
私が彼を殺した


今日も今日とて不法侵入者はシェゾの自宅のソファを占拠していた。マザーグースを口ずさみながら二人掛けのソファにごろんと寝そべり、シェゾの蔵書を適当に書棚から引っ張り出しては読みふけっている。
「アルル、おいこら誰に断りなくソファに転がってやがる。」
「えーいいじゃんケチー。シェゾの家って蔵書量が半端じゃないから飽きないし。」
それに、ボクはここ好きだよ。落ちつくし。
にへ、と相好を崩すのに「それだけの理由で入り浸られちゃ敵わん」と刺々しい言葉を放つがさっぱり気にした様子もない。
くすくすと時折零れる笑い声と、それに付随して思い出したように零れる一節の詩ばかりがこの静かな家の音の全てだった。

誰が殺した?クック・ロビン
それは私と紅雀
私のこの弓と矢で
私が彼を殺した

何度も何度も口ずさむ。
「誰が殺した?クック・ロビン」
そしてくふふと少女は笑って、「紅雀も馬鹿だよねえ」と本から目を離した。
「駒鳥を殺したって何にもならないのにさ。」
先程の歌のことか、とシェゾはようやくそこで得心いった。
「紅雀は駒鳥のことが憎かったんだろ」
「いいや、きっと好きだったんだよ」
まったく真逆の感想。おや、と男は目を眇めて寝ころぶ少女の薄らとした笑顔に目をやった。
「森の生物皆から愛される駒鳥のことが、好きで好きでたまらなかったんじゃない?」
自分のものにしたい。けれど駒鳥はこちらを見ない。それならいっそ誰の手も届かぬ場所へ追いやってしまおう。
殺したところで自分にも手の届かない場所へ行ってしまうというのに。
それは確かに愚かなことだ、と男は言った。
「そうだね、ボクなら殺さないよ。」
にい、と笑みが深まった。
「殺さず駒鳥を手に入れて見せる。」
確信したような笑顔が何故か恐ろしい。
こんなものは嫌いだ、と男は顔を顰めた。
時折少女に感じる得体の知れないこの恐怖も、獲物が目の前に横たわっているのに奪うこともできない自分自身も。
男は「さよなら」を欲していた。
馴れ合いは嫌いだった。何よりも、何よりも。
いっそ、彼女にもこの生活にも何もかもに別れを告げてしまえばいいのではないか。
それはとても魅力的な発想で、自分を縛るしがらみの何もかもから解放されることだろう。
どうせ心残りになるようなものもないのだ、少女を諦めさえすればここを離れることに何の障害もなく、少女こそがこの苛立ちの原因であるからしてそれならもう諦めてしまうことが最善ではないのかと。
ふと考えたそれを行動に移すのに迷いも何もなく、睥睨したような視線を下に。
「オレはここからいなくなる。」
未だソファに寝そべる少女を見下げてただそれだけを告げた。
好奇心半分、嫌悪感四分の一、その他もろもろが入り混じった感情のまま。
少女はぱちくりと大きな目を瞬かせて「ほんとう?」と少しばかり掠れたような声で言う。
その表情が少しばかりの驚きで彩られていることに胸がすくような感覚を味わった。ほんとうだ、と肯定してやれば少女は悲しむのだろうか。
「明日にでも発つ。もうここには来るなよ。」
なんでもないことのように言ってみれば、それは確かになんでもないことのように感じられた。
「何処へ行くの?」
何処へ、と。
体を起こした少女が金の光彩でこちらをしっかと見つめた。
「どこへでも。またあてどない旅に戻るだけだ。」
ふうん、興味のなさそうな声が無感情に響いた。
「じゃ、ボクは帰るよ。」
ぎいと彼女の体重を受け止めていたソファが重みから解放されたことに軋みをあげた。
「魔導書は残しといてね、まだ読み終わってないんだから。」
ばたん、と扉が閉まる。
自分勝手な女だ、と溜息をついて彼女の読みかけの本を書棚に収めた。
悲しむそぶりさえ見せなかったな、という考えが脳裏を過ぎって自分には関係ないことだと首を振った。




自分と少女は親しい間柄だった筈だっだ。
少なくとも男はそう思っていたし、毎日のように自分の家に入り浸っては一方的に喋り笑う少女もまた親しい友人のような感情を持っているのだろうと簡単に推測できる。
それがどうだ、親しい人間が遠くへ行って帰ってこないかもしれないというのに少女は何を言うこともない。
当日になっても顔を見せる気配すらない。
ひどい、女だ。
ごつりと木製の扉を叩く。空は茜色に近く、うっすら東は藍に染まりつつある。
「あれ、シェゾどうしたの?」
少女は常と変らない笑顔で男を迎えた。よもや昨日のことを忘れてはいないだろうなと訝しみながら重苦しく口を開く。
「ただの、別れの挨拶だ。」
もうこれで仕舞いだと笑ってみせる。
彼女は何も言わなかった。ただその熱のない瞳だけがこちらをじいと見ていた。
「本当に行くんだね。」
掻き消えそうな声が微かに笑みの感情を浮かべながら言った。
「さよなら。」
ついぞ少女は男を引き止めることはなかった。
男はそれに愕然とし、そしてしばしの沈黙の後「また、な。」と言葉を落として少女から目を逸らす。
背中を向けて遠ざかっていく男の姿に、少女はただ楽しそうに声を出すことなく笑うだけだった。

誰が殺した?クック・ロビン
それは私と紅雀

断罪されたがりの紅雀はここには一人もいなかった。
少女は賭けに勝ったのだ。