全てが上手くいっていた。誰に気づかれることもなかった。
「今日、アルルさんが来ましたの。」
カチャカチャ音をたてながら陶器のティーカップがテーブルに置かれる。
白いクロスの引かれたそれには名も知らぬ赤い花が生けてある花瓶が置かれていて、どことなく室内の雰囲気とはそぐわなかった。
注がれた茶には手をつけない。
「信用されていませんのね。」
と目の前の魔女見習いがくすくす笑った。たいして気にしていなさそうな笑顔だった。
「それで?何か言って行ったのか」
「いいえ、普通にお茶をして帰って行きましたわ。」
「それなら、いいんだ。」
相変わらず何もおっしゃっていないんですのねと言うのに無言で答える。
不実な男ですこと、と喉の奥で笑んで
「そういえば、あなたが何か隠しているようだと。」
「・・・そうか。」
自分は何かへまをしたのだろうか。そんな筈はない。
彼女は今もオレに夢中だということは断言できる。ただ疑いを持つくらいはするのかもしれない。あれは普通の女の子だから。
目線だけ動かす。魔女見習いの少女は年齢に相応しくない振る舞いでただにこりと笑った。
「ご安心なさいませ。私は何も言うつもりはありませんわ。」
「それならいいんだがな。」
友人の恋人と浮気、だなんてスリルのあることなかなか出来ませんもの。
私は事実あなたのことが好きですけど、何もなしにあなたに絶対愛してもらえるなんて自信もありませんわ。
そこまで自分を買い被るなんてことできやしません。
窓の外では日差しがさんさんと降り注いでいる。
薄ぼんやりと暗い空間でただただ明るい外の世界に笑顔を向けて彼女は自分の分の紅茶を飲み干した。
冷めてしまったお茶のおかわりを注ごうとするのを辞退して席を立つ。
「じゃあな、ウィッチ。」
「はい、またお待ちしていますわ。」
彼女は何も言わない。何も言わない。
胸の内に秘めているアルルへの呪詛も怨嗟の声も泣きだしたいほどの焦燥も笑顔に閉じ込めてただ口を一文字に噤んだままだった。



森林の奥の湖を通りがかった時に、ちゃぷんと不自然な水音がするのを男は聞いた。
大きな魚が跳ねるような、水面を叩く音。
足を止めて水面を見つめれば音の主が顔を見せた。
青い長い髪が水にたゆたうままにゆらゆら揺れる。人間とは異なる、ひれのような耳をした人魚だった。
ぱっと花の咲いたような笑顔で迎える彼女があまりにも嬉しそうにするのでそのまま通り過ぎることを止め、暫く立ち話でもするかと水辺に腰を据えた。
お久しぶりですね、会いに来てくれて嬉しいです、そういえばこの前は急に冷え込みましたね、他愛無い話にひとつひとつ相槌を打ってやれば彼女は益々嬉しそうに頬を緩めるのだった。
ひとしきり話すことを話してしまった時には空は朱に染まりつつあった。不意に落ちた一拍の沈黙に、そろそろ頃合いかと男が腰を上げた。
「また来る。」
それだけ言い残して背を向けようとした、それを遮ったのは滅多に声を上げない彼女だった。
「シェゾさん、アルルさんは最近どうしていますか?」
さりげない風に装われた声が小さく震えているのは、聞こえないふりをした。
「アルルさんとシェゾさんがお付き合いしているのは、私もちゃんと知っているんです。」
振り向いた先には小さく眉根を寄せた姿。
「私はシェゾさんが好きで、シェゾさんも私のことが好きだと言ってくださって、だけどそれならアルルさんはどうなるのでしょう。」
悩まずともよいことに悩み続けるのは彼女の性だ。
「私とシェゾさんがこうして会っていると知ったら、アルルさんは悲しむでしょうか。」
悲しむだろうか。いいやきっと苦しむだろう。
正直にその旨を伝えれば、彼女はまるで涙でも零しそうな目をして
「私はシェゾさんが好きですけれど、アルルさんを傷つけたくないです。だってお友達ですもの。」
友達だから、と気弱なうろこさかなびとは言った。
友達だから何も言えないのです。



先程の人魚の棲みかを後にして男は石畳を歩いた。
そこそこ華やかな街であるから夕暮れでも人の往来は絶えない。
何か買うものはあったかとぐるりと露店を見渡せば、見知った顔が目についた。
「なんだ、貴様か。」
「あら、あんたがこんな街中に出るなんて珍しいわね。」
軽口の応酬はいつものこと。
「買い物だ。」
「あらそう、私も買い物よ。」
暫くだんまりの時間が続けば「ちょっと、気まずいから何か言いなさいよ」飛んでくるのは理不尽な要求。
仕方なく共通の話題を探す。といっても彼女が食いつきそうな話題など一つしか思い当たらないのだが。
「サタンはどうしてる?」
露店に並んだ品物をためつすがめつしながら訊く。
「相変わらずよ。毎日アルルアルル言ってるわ。」
サタン様にはアルルが女神にでも見えてるんじゃないかしら。じゃなきゃ私に振り向く筈ですもの。思い出して腹がたったのか手にしたグラスにひびが入った。
無言で手を差し出す店主に「あら、ごめんなさい。これは買い取らせていただくわ」といたって上品に笑う彼女はまさしく名家のお嬢様といった風体。
しゃらんと音をたてる金の腕飾りが夕陽に映えて思わず「綺麗だな」と口にした。
「あら、あんたでもお世辞が言えるのね。」
すぐさま飛んでくる厭味にああ言うんじゃなかったと辟易する。
「私なんかより、あんたの恋人に言ってあげなさいよその言葉。」
「あいつがそんなタマか。」
ま、そうかもねと笑って露店の商人にいくらかの金子を渡してひびの入ったグラスを受け取った。
だけど、言葉を継ぐ。
「あんたが思ってるより、あの子はずっと綺麗よ。」
反論する暇も無く彼女は長い髪を翻してさっさと人混みに紛れていってしまった。
夜になりゆく街にはぽつぽつと灯りが点り始めた。
露店の商品を元の位置に戻して、男も家へと足を向けた。



馴染んだ家の扉を叩く。
一拍の後にばたばた音がして、続いて開いた扉の向こうには満面の笑みのアルル。
「お帰りなさい!」
可愛らしいままごとの恋愛で満足できるくらいには目の前の少女は幼い。
恋の甘さに夢中になる、恋に恋するオトシゴロ。
結局こいつは本当にオレのことを好いちゃいないんだろう、目の前の男が何を考えているか気にもしないこの少女は。
それならオレもこいつを好きになる義理はない、と思う。
どっかと椅子に座る。魔導書をいくつか棚から抜き出して読み始めるといつの間にか横にちょこんとアルルが座っていた。
随分幼くできているものだ、見上げてくる所作などまるきり子供ではないか。
「あのね、ボクはキミが大好きなんだよ。」
また、だ。
彼女は毎日繰り返す。飽きもせず、まるでレコードのように毎日毎日『大好き』を連呼する。
「そうか。」
「あ、信じてないって顔してる。本当に本当に好きなんだからね!」
こいつはオレが何をしているのか全部知ったうえで言っているのだろうか。
全部知ったその時も、同じ顔で同じことを言えるのだろうか。
全てぶちまければこいつはどんな絶望の表情をするのだろう、そう思ったが何もかもを飲み込んで至って平静を装った。
「知ってる。毎日言ってるだろ、お前。」
そっか、そうだねと破顔して
「えへへ、シェゾー」
甘えたな子供のように背中に抱きついて耳元にそうっと囁く。
「ボクね、キミのことが大好きだよ。ウィッチやセリリちゃんやルルー、それにサタン。皆のことが一番に好きなキミがいっとう大好きだよ。」
ほんとうだよ。
くるくる彼女の喉が鳴って大きな目がしぱりと瞬いた。
全て上手くいくはずなどなかった。それが道理だというのを忘れたのはいつだったろう。

少女は笑う。無邪気な子供の振りをして。魔女見習いから投げつけられた言葉の意味すらわからないと笑うので魔女見習いは口を閉ざすしかなかった。
少女は笑う。水面のようなうつくしい顔で。キミのことが好きだよ、大好きだよと「友達」という名の純粋な首輪を嵌められるのに人魚は喜んで首を差し出した。
少女は笑う。汚い言葉を隠しながら。綺麗すぎる外面を好ましくさえ思っていた女性は翻って自らを醜いと心の奥底で責め続けた。
少女は笑う。仮面のような笑顔のままで。何もかもを赦すまるで神のような偶像に憧憬を見続けた魔王は自責の念で眼を潰した。
少女は笑う。幼い子供そのままの情動をもって。一体誰が悪いのかと問われれば、男は間違いなく自分だとしか言えなかった。
少女は笑っていた。



ねえキミ、ボクがいなくなったらどうするつもり?と少女は華やかに嗤って言った。繰糸が切れた人形は絶望へ向かうだけである。これらは全て彼女が演じさせた滑稽な喜劇なのだと男はそこでようやく気がついたのだった。

(残ったのは恋の残骸だけだね、残念。)