ふらりと何処からか飛んできた蜂がふいと耳の横をよぎって目の前の樹木に止まる。
大して珍しくも無い風景をぼうっと眺める。
樹液を舐めようと昆虫たちが樹木に集まる、その中の一匹というだけだった。
その蜂はせわしなく何度も何度も樹液の周りをうろうろとしていたが他の昆虫たちに遮られて辿り着けない。
やがて諦めたのかぶるりと羽を震わせて、けれど飛び立つこと叶わずぽとりと幹から落ちた。
思わぬ出来事に少し驚きをもってその光景を眺め、けれどやがて自分には関係のないことだと思い至って目を逸らす。
あーあ、背後から突然かかった声にぎょっとした。
慌てて振り向けばよく見知った顔が全く知らない表情でそこにいた。
しんじゃった。
残念そうな素振りも見せずただそこで馬鹿にしたような笑いを貼り付ける彼女のことが少しだけ怖くなって、眉を顰めて誤魔化した。
なんだかキミみたいだね、彼女はすたすたと蜂に近付くと先程とは全く別種の慈愛に満ちた笑みを浮かべながらゆるりと華奢な羽をもぐ。
ほら、これでキミだ。
振り向いてもいだ透明の羽をばらりと地に撒く。
男は何も言えなかった。何故なら彼女にとってはれは確かに真実であったから。
真実を汚す度胸も無い男は認めたくないと目を逸らすことしかできなかった。
先ほどぽとりと落ちた蜂はまだくったりとそこで横たわっていて、時折痙攣するように足を動かしているのがやけに目につく。
彼女の目にはきっと自分もあんな風に映っているんだろう。
死にかけの蜂も高価な宝石も全て等しい価値をもって彼女の中に存在する。
とても残酷で平等な彼女だから出来ること。
彼女にとっての『特別』は世界のどこを引っ繰り返しても見つからない。
それでもなりたかった、おもちゃ箱の中に紛れた小石でもよかった。おもちゃでなければ何でも良かったんだ。



いつしか彼女を殺せたなら、と何度も何度も思った。
ころせたなら。ころせたなら。その先が思い浮かばないのはどうしてなのか考える気にもなれない。
彼女は無防備なまま目の前の椅子に座っている。
手元にはカラフルな彩色が為された缶。彼女はそれを開けようと膝の上に乗せて蓋を掴んでいる。
今なら、今なら。
「なんのつもり?」
つい、と剣の切っ先を喉元に突き付けたところで彼女は全く動じない。
それは自信か、過信か。
睨みつけるような蒼い眼光を真っ向から受け止めて飴色が柔らかく綻ぶ。
「・・・怖がらないのか。」
「何に怖がれと?」
「いや、いい。」
どうせ何度やっても無駄なんだと知っている。
「お前は俺を嫌わないんだな。」
「どうして嫌わなくちゃならないの。」
「俺は今でも貴様の喉を切り裂いてやろうと狙っているのに?」
「残念だけどね、それはボクがキミを嫌う理由にはならないよ。」
どうせキミのことだ、ボクに嫌われたがっているんだろう?
捻くれた思考を読んでやれば図星だったかのようについとそっぽを向く。ああ、キミは本当に単純だねぇ。
ぺちぺちと剣を叩く。「ちょっと、邪魔なんだけど」下がった剣先を一瞥して、再び膝に目を落とした。
かたかた音をさせて手元のクッキー缶の蓋を開ける。
チョコレート・チップを焼きこんだクッキー。嬉しそうに食いついては缶の中身を次々と減らしていく。
お前は、
年頃の少女然とした笑みを貼り付けて彼女はこちらを向く。
惨酷だな。
「やだなぁ、愛だよ。」
「ほざけ。」
その言葉に彼女はぶうと頬をふくらまし手の中のクッキーを口に放り込む。
ごりりと彼女が咀嚼する音が妙に耳について部屋の空気と不協和音を奏でる。
「そういうキミだってさ、とんだ博愛主義のくせに。」
「誰が。」
「あっれー?気付いてないの?」
「オレは生憎憎しみをもってしか接したことはないからな。」
「そう、それだよ。」
最後の一つを噛み砕いて嚥下してにやりとチェシャ猫のように頬杖つく。
「憎むだなんて労力のいること、愛してなけりゃできないんじゃない?」
「詭弁だな。」
ちらりと彼女に目を遣ると全て見通しているかのように目を眇めていた。
「ん?ボク?ボクは全部愛してますから。憎むなんて難しいことやる気も起きないよ。」
「憎しみの前に愛はいらないだろう。」
栗色の髪の彼女はこの世の誰もを愛している笑みを模って、「それこそ」
詭弁だね、と唇を歪めた。