小さな夢を見た。
遠い昔の『ボク』が森の中で泣いている。
『ボク』は泣きつかれて森を抜けられずに、そのままウィスプになってふらふら彷徨って消えてしまった。
けれどもボクは家へ帰った。
少し大きくなった『ボク』は卒業試験の塔の中で怖い怖いものを見た。その場にへたりこんで動けないまま、幻覚の痛みに血を流した。
けれどもボクは卒業の祝福を受けた。
魔導学校へ入学するために道をゆく『ボク』は突如として昏倒させられ監禁された。
誰も助けになど来ない絶望的な状況の中、『ボク』は一人地下牢で朽ちていった。
けれどもボクはここで生きている。
魔物の商人に乞われるまま潜った遺跡で、『ボク』はサタンと呼ばれる魔物と出会った。
圧倒的な力の差に『ボク』は敗れ、カーバンクルを手に入れることは叶わなかった。
けれどもボクの傍にはカーバンクルがいる。
ただ、それだけの話だった。
それだけがボクと彼女の違いだった。


夢を夢だと自覚するのは結構難しい。
だけどここには真っ暗な世界だけが広がっていてどうやって立ててあるのか分からない鏡が一枚あるだけだったから、ボクは存外簡単にここが夢なのだと理解した。
壁掛けの鏡は綺麗な枠で飾り立ててあるけれど、壁のないここにどうやって立っているのかが分からない。
まあ夢なんてこんなもんだと強引に納得して改めて鏡を覗き込んだ。
「久しぶりだね、ドッペル。」
にこりと笑うと鏡の彼女は不機嫌そうに口を尖らせた。
「ボクの名前を呼んでよ、アルル。」
「ごめんね、ディーア。」
にこにこ笑うボクに鏡の中のボクと瓜二つな彼女も少し機嫌を直したようで「ま、いいけど」とだけ言って肩を竦めた。
真っ赤なアーマーを身に纏う彼女は少しばかり意地悪だ。
「ね、まだボクになりたい?」
全くボクの動きを真似するつもりのない鏡を覗き込む。
「なりたいさ・・・と言いたいところだけどね、どうやらボクはキミにはなれないらしい。」
「当たり前じゃないか、ボクはボクだしキミはキミだ。」
何を当たり前のことをと快活に笑うのに鏡の彼女は相変わらずの博愛主義だこと、と悪態を吐く。
笑顔で受け流した。どうせ、ここは夢なのだから言葉にも行動にも大した意味は存在しない。
あるのは黒に浮かぶ無意識の意識だけ。
「鏡から出てきたら?そっちは窮屈じゃないの。」
だってほら壁掛けの鏡はほんの少しの厚さしかなくてボクから見た彼女はまるで薄切りにされたよう。
「何を言っているの、鏡の中なのはキミの方だ。」
「そう?」
「そうだよ。」
「それって哲学かな?」
「んんん、難しいね。しいて言うならボクらは互いを映す鏡同士ってことでいいかな。」
「ならおかしいでしょう。」
「どうして。」
「合わせ鏡は無限だよ、けれどキミは一人しかいない。」
「それはそうだ、合わせ鏡に映るのはボクじゃなくてアルルなのだから。」
「自分はアルルじゃないって認めてるよ、その発言。」
「ああ、ようやく気付けたからね。」
なにを?と問う前に紅い彼女が急にそっぽを向いた。どうかしたのかと覗き込んでみるが、やっぱり鏡は彼女しか映さない。
「ねえ、もしもキミがディーアでボクがアルルだったら。」
「だったら?」
「キミはボクと同じ行動を取るんじゃないのかい?」
その問いにくつくつとアルルは常にはない笑いを零して言う。
「ねえディーア、キミがボクだというのなら。分かっているんじゃないのかな?」
「ああ知っているとも。」
彼女は彼女を真正面から見詰めて、眇めた光彩に彼女の赤を映した。
「ボクは『もしも』なんて信じてない。」
起きた事象は全て必然。起こらなかったその他大勢の『もしも』なんて踏みつけられて消えていく。
そうでなければ、死んでしまうから。
「ボクがキミのドッペルだったのは、キミに踏みつけられて存在しているからだね。」
「そうかもね、キミはボクのなりそこないだ。」
肯定した彼女はしかし少しも悲しそうではなく、むしろ楽しいとでも言いたげに顔を歪める。
「ふふふ、愉快だよアルル。キミがどこかのアルルのなりそこないになる日が来るのかな?」
「さあ、ボクは『もしも』なんて信じていないから。きっとその日は来ないよ。」
「ああ、やっぱりキミはアルルだよ。」
「ありがとう、ディーア。褒め言葉として受け取っておくとしよう。」
せめてキミの、鏡でいたかったよ。
ばりりと目の前が割れて崩れて、きらきらした破片がぽろぽろと落ちていく。
それに一瞥くれて、
「キミはやっぱりボクの劣化品だから、鏡になることはできないよ。」
ぐちゃりと破片を踏み砕いた、それに映る憎々しげに歪んだ顔は誰のものだったのか、ボクにはもう判らない。



小さな、夢を見た。
幼い少女は最初から正しいことが強いのではないということを知っていて、それは成長してからも変わらなかった。
ボクは森で迷子になったけれども魔物を退けながら森を抜け、無事家に帰ることが出来た。
少し成長したボクは魔物の幻覚にも負けずに相手を倒し、塔の外で待つ友達に祝福を受けた。
魔導学校へ行くという目的があったボクは拉致監禁されようとも諦めず、出口を塞ぐ男をぶちのめし脱出した。
魔物商人との取引のため潜った遺跡で出会った魔物は強大だったが辛くも勝利し、カーバンクルを手に入れた。
ボクはまだ生きている。
ボクは、まだ。生きている。