『それ』はとてもとても簡単なことだった。ひどく簡単で、
(ああこんなことでいいのか)笑うことを止められそうになかった。空は暗い。空は暗い。大地は黒い。光がない。いや、ある。暗い木々の影やちらちら瞬く星が眼球からその存在感を訴えかけているのだから、光という概念であったり物質であったり波長であったりするものはここにあるのだろう。しかしこの場所はあまりにも暗いので一瞬光というものが存在していないのではないかと考えてしまった(馬鹿馬鹿しい)。振り向くと遠くで空が焼けているのが見えた。赤い空だ。人工的な赤が空にある。反吐が出る。例えそれを為したのが自分であっても、暗い空に立ち昇る焔の色というのはひどく気持ち悪いものだった。あの空の下で燃えているものが何なのかを、アルルは知らない。自分で燃やした一件の家。住んでいた人間を知っていたようにも思うが、アルルはとっくにその人物を忘れていた。誰かが言った(記憶は消えたりしないのよ、ただ記憶を知る方法を失くしてしまっただけ)けれどアルルは忘れていた。まあいいか、と呟いてさっさと空から目を外す(大したことじゃないなら、忘れたままでもいいや)。脳裏に誰か、よく知ったような気のする人物が過ぎった。(あれ)歩みを止めて少し考えてみる。(あの家に住んでた人だよね、きっと)誰か忘れたままなのだろうか。それは失礼なことだとアルルは思う。少し思い出すように眉間によった皺を指でほぐした。青い目をしていた気がする(深くて澄んだ色だったような)。銀色の髪が綺麗だった気がする(触ってみたいと思ったんだ)。綺麗なつくりの顔をしていた気がする(そのくせ残念な性格してたよな)。ここまで思い出しておきながら名前がちっとも出てこない。ちなみに顔もおぼろげだ。思い出すのは自分がその人物に対してどう思っていたかという感情の残り滓ばかりで、当の本人についてはさっぱり思い出せなかった。(この人は、燃えたのかな)だってあの家は燃えている。それならこの人も一緒に燃えてしまったんじゃないだろうか。なんだか見ず知らずの人からも置いて行かれたような気分になって、顔を顰めた。(皆ボクを置いていくんだよね)(お父さんみたいに)そう考えると忘れていていいような気がした。おあいこだと舌を出す。先程より大分勢いの収まった赤を振りかえって、再び疑問が頭をもたげた。(どうしてあの家に火をつけたんだっけ)何か大事なものがあったような気がする。先程の人物だろうか。それにしては名前も顔も覚えていないというのはおかしい。よく分からなくなったのでアルルは帰路を急いだ。(あれ、ボクどうしてあの人を思い出そうとしたんだっけ)(何か忘れてることでもあったかな)(覚えてないや)







ラ、ラ、ラ!
燃えて崩れた家からは男の遺体が発見された。男は家が燃えるずっと前に息絶えていたらしかった。
アルルはそこに男が住んでいたことすらもう覚えていなかった。